「ジロさん、味噌一丁!」
アルバイトの女の子の注文を通すかわいい声。
「あいよ!」
店主の渋い声がこれを受ける。
「まいどー!」
常連客のしんじいが、すかさず合いの手を入れる。
店の中には店主とアルバイトの女の子としんじい、そして今しがた入ってきた中年男女の客の5人しか見当たらない。
静まり返った店内で、そんな大声で注文を通す必要もない。
さらに言うと、客が「まいどー!」などと返すのはまったく可笑しい。
しかしこのワンフレーズは、注文が入った時に必ず行われるこの店の儀式のようになっていた。
中年の男女は、二人で一杯の味噌ラーメンを頼んだ。
二人で分け合って食べるのか、またはどちらか一人だけで食べるのか。
しんじいはそこのところが気になる様子で、彼の専用席になっているテーブルの上に広げたスポーツ紙の破れた隙間から、二人の様子を窺っていた。
そのことにアルバイトのミーちゃんが気づき、
「ジロさん、しんじいったらまたやってるよ。」
一瞬口元が緩んだように見えたが、二郎は黙々と味噌ラーメンに入れる具材を炒めていた。
しんじいはこの店の常連客だが、ただの常連さんではない。二郎の親父の代から通っている筋金入りの常連客だ。十年ほど前に定年退職して、その後しばらくはどこかで働いていたようだが、そこも辞めてもう数年になる。それからは昼前の開店からここで夕食を済ますまで入り浸っている。この店がいまの彼の職場といっても差し支えないほどだ。
中年の男女が注文した味噌ラーメンは、結局女性が食した。男性は後でビールを頼んで、それもそろそろ空けるころだった。女性はまだラーメンに舌鼓を打っていた。男性がビール瓶を持ち上げて追加の注文をしようとしたとき、急に店の引き戸が威勢よく開いた。頼来(らいらい)亭というのれんを跳ね上げて、黒服の厳つい数人の男がなだれ込んできた。一同があっけにとられている間に、黒服の男たちはしんじいを取り囲み、そのうちの一人が彼になにやら紙切れを見せてつぶやいた。
「紙谷信次だな」
「へっ?」
今度は少し声を荒げて、黒服は言った。
「紙谷信次だな」
「ああ、そうだが」
「お前を鏡京子殺人の容疑で逮捕する」
「はああ?」
「ちょっと待ってください。それ、何かの間違いです」
とミーちゃんが、注文を通すときと同じくらいの大声で黒服たちに向かっていった。
続けてジロさんが、
「あいよ!」と合わせた。
しんじいの合いの手を欠いたワンフレーズは完成を見ぬまま、彼は黒服に連行されていった。ものの1分もかからなかった。
少したって、別の黒服がのれんを少しかき分けて顔を出した。
警察手帳を見せながら、
「ご主人、ちょっといいですか」
と言って、ジロを手招きした。
ジロは持っていた鍋のふたに気づき、それをそこいらに置いて引き戸の外へと足早に出て行った。
「迷惑をかけました。なにせ殺人事件なので、他のお客さんに危害が及ぶ恐れがありましたので、こんなかたちで入らせてもらいました」
「しん・・、じいさんはなんで逮捕されたんですか?」
すぐにしんじいの名前が出てこなかった。
「それはまだ詳しく申し上げられませんが、ある殺人事件の容疑者で、証拠もそろったので逮捕状が出たというわけです」
「じいさんは、そんなことをする人じゃありません!」
「そう言われても証拠が出ましたので」
「どんな証拠です?」
「それは申し上げられません」
そう吐き捨てて、黒服の親玉は踵を返した。
進みかけて、何かを思い出したように向き直り
「わたしの名刺です。なにかあったらここへ連絡ください」
そう吐き捨てて、再び踵を返した。
名刺の中央にひときわ大きく書かれた画数の多い文字を、つぶやくように読んだ。
「警部 轟鉄男」
彼が向かった先には赤色灯を点けたパトカーが止まっていた。その真上の街灯が後部座席をうっすらと照らしていた。あの少し禿げ上がった後頭部は見慣れたしんじいのものだ。ジロにとって彼は、さっきまで空気のような存在だった。いまその彼のうなだれた後頭部が次第に遠のいていくのを見て、急に家族を奪われたような寂しさで胸が締め付けられた。
「しんじーい!本当にお前がやったんか!」
二郎はしんじいの禿げ上がった後頭部に向かって叫んでいた。
だが、小さくなっていく後頭部にはその叫び声は届くはずもなかった。
背後で小さくすすり泣く声が聞こえた。
いつのまにかみなみが二郎の背中で小刻みに体を震わせていた。
パトカーが進みゆく先には、下弦の月が悲しそうにそっと留まっていた。
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